昭和52年11月26日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
今日は慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ、油断をすなとこう。ここんところに焦点をおいて聞いて頂きます。油断をせずに信心を進めて行くと言う事は、昨日の御理解からゆくと、お徳が受けられると言う事なんです。さあ人のうらやましがるような大きなおかげを、例えば頂きましてもおかげを取りはずし。取りはずししておったんでは、おかげからお徳に進んで行きません。その頂いたおかげをもって、いよいよ神様を信ずる力が生まれる。いよいよ神様を信ずる力で、油断なく信心を進めて行く所にね。
おかげと共に力が頂かれる、いわゆる確信が生まれてくる。いわゆる安心の生活が出来る様になると言う訳です。ですからそのう教祖様のお言葉の中に「今中」という言葉があるそうです。いつも真ん中というのです。どんなにたとえば有頂天になるほどしのおかげを頂いても、絶対有頂天にならない。いうなら成り行きをいよいよ大事にしていく、大切にしていく尊んで頂いていく。有頂天にならない。
というてまあどういうなら難儀な中にあっても、そのことを成り行きとして合掌して受けていくという。それがほんとの意味においての成り行きを大切にし、成り行きを尊ぶと言う事なんです。ですからどういうなら、調子にのりすぎると思われるようなおかげを頂いても、調子にのりすぎらんように、いうなら成り行きをいよいよ大切!にしていかなければならない。
もちろんなら右と願っても左と言った様な時であっても、力を落とすことなしに、いよいよご神意深しと頂いて、その深いご神意のまにまに、信心を深めて行くと言う事なんだ。そういういきかたは、だから油断が出ないわけ。私しはこの四十五節という、始終五節なんだ。いつもが五ですから真ん中だと言う事。いつもが始終五節だと。教祖はそこんところを「今中」とこう仰せられたそうです。
折角おかげを頂いたおかげを取りはずしてもつまらんけれども、取りはずすと言う事は、お徳につながらないと言う事なんです。だから頂くおかげをおかげとして、いよいよ神様を信ずる力が生まれ、いわゆる絶対信が生まれてくる。その絶対信をもって信心を進めていく。いつも始終五節である。いつも今中である。どんな場合であっても、成り行きをいよいよ尊び、大切にすると言う事。
合楽の方達は、もう困ったことが起きてきても、それを成り行きとして受けると言う事は、よく言いますけれどもね、おかげを頂き過ぎておる時に、それを成り行きとして尊ばない大切にしない。結局お礼不足である。おかげ頂いたと言うても、ただお礼参拝したらそれで済むように思うておる。それで済んだと思うてはならんのです。昨日ある方が大変、大変なおかげを頂いております。丁度電話がかかって六時頃出てくるから、という電話がかかってきた。今は遠いところからやってくるんです。
ところが六時という時間があたしにとって一番困る時間なんです。特にお客さんがいつまでも、お客さんどんがある時には、どうしてもお神酒を一杯頂きすぎますからま、丁度私しがよい気色で足を揉んでもらっておる時であります。まあ一番困った時間にくるね、ち言うたらやっぱその時間にやってきました。も、この時間が一番私は困る時ばいち、言うてから。いえもうおやすみになっとるままでいいですから、ただお礼に参拝さして頂いたと。大きな給料初めて大きななんて言うですかね。
会社の副社長さんとしておかげを頂いて、初めての初月給を頂いた。だからその大きな袋のままに、わたしが寝床んところへ持ってきて。そしてそれに上に奉ると書いて名前がこう書いてある。もうほんとにおかげを頂いて、まあ一月分のこの給料は一番始めのいうならほんとのお初穂だから、このままお供えをしようというのであろうと私は思うた。ならもう寝ながらご無礼するよと、言うてそこで受けておけばいいでしょうけれども、それではいかんと私は思いました。
なぜ御結界に出てあたしがとこに、あたしに見せんで見せんでもいいとあたしが思うた。ただここにはお礼を、言うだけでいいと思うた。だから私しがそれをま、いうなら突っ返すような感じでしたけれども、これは御結界に通さなきゃいけないよと言うて、あたくしはもう受けもせずそのまま返しました。そういう時人情を使いますならば、もうほんとに、あのおかげ頂いとることだし、まあいうならばまあなんて言うでしょうかね、ふつうで言うなら、おせじのひとつも言う所じゃないでしょうかね。
わざわざ遠方からしかも、初月給を頂いたと言うて、その月給袋をそのまま持ってきておるお礼を言いに。それだから私の寝とるところにまでわざわざやってきたんですから。そういう時に私は非常に冷たいですもんね。ほらもうほんとにおかげ話のひとつでも聞いて貰いたいのでしょう。けれどもまた明日お電話ででもいろいろお届をさしてもらうと言うて、まあきょそきょそでしたけれどもかえしました。
私しそういう時にですねほんとにこの次の、いうならばおかげを頂かせなければならない責任がありますから取次者としては。それでやれやれ済んだではいけんのですから。はっあたしが有り難がっとったんではおかげにならんわけですよね。信心にちょっとしたところからお互い油断が出るんです。昨日は二十五日の研修会でしたからま、みなさんの色々なお話も頂かしてもろうて。それから先日のお月次祭の御理解も頂きました。ほんとに私しが興奮いっぱいで、興奮しながらお話しとりますのですから。
昨日のテレビは、なんかどういうわけか間違いかが、雑音がどんどん入るんです、ずうっと大きな音が。けれどもその雑音を雑音と聞こえないくらいに、そのお説教だけが響いてくる。聞き終わってからみんなに、あの音が聞こえたかと。そりゃ合間合間にはあげな雑音がある、けれどもその雑音が聞こえないくらいに、やはり一心不乱に話とるからやっぱり一心不乱に聞かせて頂けれる内容を持っておると思うて有り難いと思いました。私が有り難いという興奮一杯で、この前の月次祭のお話をしとりますから。
いうならまたと頂けないお話なんですから。それを頂いてそう思いました。中に昨日の朝の御理解をまた研修、またもういっぺんテープを頂いてから内容を検討しました。昨日の朝の御理解は、だいたい、合楽の御理解にしては舌たらずの御理解であった。ご神徳を受けるという、それにやはりこういう、考え方生き方になれば、おかげが受けられるというお話をしました。姫路の中山さんの話をしましたですね。
ほんのわずか五日ぐらいでしょうか、帰られる前にいっぺんあたしがお参りしておる金光様に、帰る前に様々難儀を持っておるんだから、あんたもいっぺんお参りしなさいと言うてなら、倉本さんの妹さんですから、連れて参って来られたから勿論、それっきりかと思うておったらあくる日参ってきた。またあくる日参ってきた。またあくる日参ってきた。それも近いところからじゃない。なんかほんとに参らずにはおれない、と言う様な、まいうならば気持ち。
それでいろいろ難儀な問題を、四年生になる孫が帰らせて頂いて御神米頂いてそれ以来、も一月余りになるけれども、寝小便が止まっとる。おかげで、こちらから帰らせて頂いて、まあ、十日ぐらいしてから開店されたラーメン屋が、店のお名前まで頂いて帰らせて頂いたら、非常におかげを頂いておる。息子さんの嫁さんが蒸発しておった、とにかく手だてのしようがなかった人が、昨日の朝昨日の朝じゃない、一昨日になりますかね、一昨日の朝、帰ってまいりましたとこう言う様なおかげ。
だからならあちらへ姫路に帰ってどういう信心をしておるかというと、大祓ひとつ知らんのだから大祓本買っていって、大祓信行せろと言われるから、毎日大祓信行さしてもらう。お客さんが見えたら必ず拝めと言われるから必ず拝んでお客さんを受ける。書いて色紙に書いて頂いた[薫]という字を、自然に起きてくることを重んじて、重んじる心が薫というが、いうなら成り行きをいよいよ大切に重んじていきゃあ、薫るようなおかげにもなるぞと頂いたので、店の一番拝みよい所にお奉りをして。
それを御神米と共に拝んでおると、こういうのである。だからなら長年信心しておって大祓信行大祓信行と言われておって、このごろもう止めとりますという人もあるだろうと。なら、ほんとに成り行きをだいじにしておるかと。ならお客さんを例えば拝む心でお商売さして頂いておるかと。たったそれだけだけれども、またたった四五日であったけれども遠いところから、やはり今日も参らにゃおられん、という気持ちでお参りをさせて頂く、そういう心にやはりこういうなら。
鮮やかなおかげにもなってくるのだろうという、お話そこまででしたよね。そこから神様を信ずる力というものが生まれてくるんだと。はあ神様ちゃほんとにあらたかなこっちゃあるな、こっちが一生懸命向かいさえすれば、こういうおかげも受けられるという、神様をようやく信ずる心が生まれてくるというお話でした。そこで私しは昨日、研修の時に、そのお話を聞いて、今日の御理解は合楽の御理解にしては舌たらずの御理解であった。ほんとに完ぺきに御神徳を受けられる。
信心あそこに信心とあるのは、信心をすれば誰でも御神徳が受けられると言われるが、なら御神徳を受けておるという人は、沢山な信者の中にもそれこそ数えるしかしかない。おかげを受けとっても御神徳は受けられない。それにはまず神様を信ずる信心。ここで書いてあるのは、信ずる心と書いてあるから、その神様を信ずるところから、神様もまた信ずる者を信ずるという働きが生まれてきて、おかげを受けられるんだ。
そこから確信が生まれてくる、絶対信が生まれてくる、絶対信即安心だというふうに、昨日は聞いて頂きましたよね。ですからあれはいうならばおかげを頂かなければならんという初信の人に対する御理解なんだ。ほんとに御神徳を頂くというのは、その確信がどのような場合にあっても、揺れ動くような時であっても、その確信が揺るがないという信心にならなければならない。
昨日そこんところ、私し昨日の御理解はそういう意味で、いうならば御神徳を受けると言う事についてならば、半分しか聞いて頂かなかったつもりであったが、どう言う所をもって半分であるか、みんな分ったかと言うて、原さんそれから秋山さんに質問を致しましたら、もう二人ながらに見事にそこんところの御返事をされました。ほんとに有り難いと受けて行くと言う事と同時にです。例えば原さんの表現を借りるとです。ほんとにお風呂に入っておる時には、実感としてあぁっ極楽と思います。
自ずと有り難うございますが出ます。けれどもそれと反対の時であっても、やはり極楽と感じれれる信心と、いうふうに表現しておられます。だからそこが出来た時に、いうなら、御神徳を頂くためには、そういう信心がなされなければ。今日私はそこんところをです。油断をすな油断をする慢心が出る。するとおかげをとりはずすぞと、仰る所へ焦点をおいて聞いて頂いとりますから、そういう信心を身につけていく限り、私は油断はでらんと思うですね。
おかげを頂いたけん、もうなら姫路の中山さんの場合なんかです。おかげ頂いたまた売れたまた売れたと言うごたるおかげを頂いていくという、ことにはね確かに神様信ずる力は生まれてくるけれども、そこからがやはり話を聞かにゃならん、また参拝あれがどうでしょうか、ほんとに信心が段々分かっておられる方ならばです。昨日も申しますように、はあ月給貰ったというては、それをそのままそっくり、お供えでもさせて頂こうと言う様な、わざわざお礼参拝にも出てこにゃおられないのだけれども。
まあさあそこが悲しいかな信心を分かっていない、聞いていないからそういう、いうならばおかげを頂いておりながらも、なら電話の先でお礼を申し上げます、と言う事だけになる。だから信心はね、それこそお願いには慌てて出てくるけれども、お礼に慌てて出てくる氏子が少ない、とこう仰せられる。それこそお礼にほんとに頂いた、例えばその寝小便いっちょだって出てくる価値があるでしょう。いうなら。けどもそこがやはり信心を頂いて分かっておかなければ出来ません。
昨夜ご祈念が終わって、最後のご祈念をさせて頂きます時に、昨日ある人がま、さみしいというかはがいいというか、で心が暗くなるような思いがしたというお届があった。だからそのことを私しも心に掛っておりましたから、最後のご祈念の時にそのことをお願いさせて頂いとりましたら、『あのあれは、しらかねカイロち言うでしょうか、私しはぱっきんと聞いたんです、ぱっきんカイロ、白い金の懐炉がありましょう。ここに暖めお腹を暖める寒か時に使うと、それを白金カイロと言わずに、ばっきんカイロと頂いたんです。点々を打って。』
ですからお互いみんなですね、例えば秋永先生に言わせると、もうそげなしかたぁむないことは、もう思いなさんなとも、一切が神愛じゃがとこう言ってます。確かに神愛です。だからほんとにそれが神愛と分からなきゃいけんのです。だからそれをただなら簡単に聞くと、どげなお粗末ご無礼ができてそこに罰かぶる、罰かぶると言う事はないけれども、難儀がそこにあるとしてもです、これも神愛と直接こう中身がなしに、神愛と頂いたんではおかげにならんのです。
例えばさみしい思いをするとか、辛い思いをするとか苦しい思いをするとか、それは誰がなら苦しい思いをしとうかというと、あなたが苦しい思いをしとるとじゃろうもんと言う事でしょうが。あなたが苦しい思いをしとるとじゃけん、あなたが苦しい思いをしなければならないのだから、あなたがいうなら罰かぶっとるとたいという、まあ分かりやすく言うならそう言う事になるでしょうが。
人間関係経済の問題、様々な問題、難儀があります。それをなら苦しいというなら、誰が苦しいかとあなたが苦しいとじゃろうもんと。なら苦しいと言う事は、あなたがいうならば罰かぶっとるとたい言う事になる。そこからですんならいわゆる罰金を納めなければいけないと言う事。いうならばお詫びの印に、修行をさして貰うお詫びの印にお供えを、罰金を納めさして貰う。お詫びの印ねだからそのさみしいとか、苦しいとか腹がたつとかというのは、あの人がああ言うたから腹んたつのじゃ。
その向こうに深いご神意があるのだ。だからそのご神意を悟らして頂いて、いわゆるぱっきんカイロであり、罰金カイロと言う事になる時に心が豊かに温かぁになって。これは不思議なんです。お気付を頂いたと思ったら、そのお気付お詫びの印に信心をしてご覧なさい。心がまたカイロを入れたように温かぁくゆったりとおかげが頂かれるです。罰金カイロです。それをあれがあげなこと言うたと。ほんとに俺だけが貧乏くじをひいて、という貧乏くじを引かなければならないのはあなたじゃろうもんて。
そんなら神様のいうならば、ご神意をそこに悟らせて頂いて、ほんとに振り返ってみると、お粗末ご無礼なところがいっぱいなんだ。そこでならただお詫びするだけじゃない、お詫びのしるしに修行をする。お詫びのしるしに信心を高め進める。お詫びのしるしにお供えをする。罰金カイロである。そこにはほんとにそれこそ、不思議なくらいにそのことがなんでもない豊かな温かぁい心で頂きとめることが出来る。そして初めて神愛であると言う事が分かるのです。そこで初めて。だから神愛は神愛です。
一切どう言う事が起こってきても、即神愛です。だからその内容が分からんとです、なら罰金カイロを納めんなりに、ただ神愛神愛と言うとったんでは、ほんとな事ではないと言う事なんです。そういう信心をです。私どもが繰り返さして頂く限りです。油断の出ることはなかろうと思います。またおかげを落とす事もなかろうと思います。頂いた落としたそれが繰り返しではお徳になりません。
いうなら神様を信じた上にもいよいよ信ずる力というものが、頂けてくるおかげを頂いて、いつも私どもの心の中に感じておらなければならないことは、成り行きそのものを、それが良いこと悪いことにつけてもです。調子に乗り過ぎらんように。というて悲観落胆せんですむような信心。なるほど四十五節いつもが真ん中、今中の信心させて頂いて、油断のないひとつ信心をいよいよ進めていきたいと思います。
どうぞ。